| チェコのグラフィックデザイン 全体主義体制崩壊後8年半を経過して | ||
| ヤン・ライリッヒSr. | | |
| 1989年11月に全体主義体制が崩壊したのを受けて、一党独裁から複数政党制ヘ、統制経済から自由市場経済へと、急進的変革がもたらされています。チェコスロバキアは、チェコ共和国とスロバキア共和国の2つの国に分離独立しました。こうした諸々の急進的変革によって、チェコのグラフィックデザイナーは数々の矛盾する、しかも時には逆説的な状況に置かれています。 ぼぼ完全に封鎖されていたチェコの国境は、いまや開放されています。この開放と貿易の自由化とが到来したのは、ちょうど世界規模でビジュアル・コミュニケーションの世界にコンピューターが浸透してきたのと機を一にしていました。他の国々と同じようにチェコでも、元々活動していた熟練した技術をもつグラフィックデザイナーに、それよりもかなり多くの数のコンピューターユーザーが加わって、グラフィックデザイナーの数が急激に増えました。まるで、誰でもグラフィックデザイナーになれるような錯覚を覚えるほどです。それに続いて起こった広告ブームに乗って、何百もの事務所やスタジオが設立されています。なぜならば、世界の他の国々と違って、チェコではテクノロジーだけでなく、むしろ顧客が変化を遂げているからなのです。巨大国営企業の民営化によって、まずこれらの企業が崩壊し、そしてかつては実現不可能で抑圧されていた、起業への欲求が堰を切ってあふれ、中小企業の設立ラッシュにつながっています。 使用される素材の品質、とりわけ最終プリントの品質はもちろんのこと、あらゆるデザインワークの技術的な質も、短期間のあいだに国際レベルに十分達しています。その一方で、大多数の量産品の美的な内容の質は大幅に低下しています。アーティストやデザイナーが宣言し、かつ現在存分に謳歌しているあらゆる活動の自由は、極めて低級な芸術ジャンルの制作や流通を野放しにするという形で跳ね返ってきています。 現在のチェコのグラフィックデザインの形成にインパクトを与えている別の主要なファクターは、環境の急激な国際化です。これまでに、順調に事業を伸ばし資金の豊富なチェコ企業は数えるほどしかありません。この国で大歓迎されている外国資本には、外国の広告代理店も後からついてくるため、なかには「これは援助なのか、それとも単なる植民地化なのか」と疑問を投げかける者もいます。また、グラフィックデザイナーの組織構造もかなり変化を遂げており、依然として転換期にあります。専門職や業界関係のグループ、クラブ、協会のあらゆる組織的活動も、資金調達手段が全く不足しているために制限されています。いまや、国や地方財源からの寄付や補助金がよりいっそう求められています。 現在、チェコ共和国のグラフィックならびにデザイン界の状況は依然として混沌としています。専門職のコンピューターユーザーが主導椎を握る状況にはまだなっていません。「ビロード撃命」からほぼ8年半経った現在でも、一流グラフィックデザイナーは中高年層から出ています。こうしたグラフィックデザイナーは従来の手法に基づいて創作を続けており、どちらかといえば作業を容易にするための手段としてコンピューターを使用しています。 「チェコのポスター50選」が示すように、チェコ共和国では一流グラフィックデザイナーはほぼ専らといっていいばど、文化方面の顧客、とりわけ劇場のための制作活動をしています。かつて名声をはせたチェコの映画ポスターは現在、事実上存在しません。チェコの映画市場は、芸術的価値の低い独自の宣伝用素材を使用するアメリカのプロダクションによってコントロールされています。チェコのグラフィックアーティストが自分たちの創作原理を確認し、自分たちの芸術的活動に打ち込むことのできるもう一つの場が展示会、とりわけ個展です。 コンピューターを完全にマスターしている若年層のグラフィックデザイナーは、まだ文化の分野には進出していません。彼らは主に広告や産業や商業を対象に仕事をし、その作品はこれまでのところ、凡庸なものにすぎません。駆け出しの頃からコンピユーターと共に育ったグラフィックデザイナーはすでに現れています。彼らの出現は、1996年のブルノビエンナーレで感じられました。チェコ・グラフィック界の転換期はもうすぐ終焉を迎え、チェコ・デザインの「ニューウェーブ」がすぐに巻き起こるのは間違いないでしょう。 | |
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