| ブルノ・ビエンナーレについて | |
| ヤン・ライリッヒJr. ブルノ・ビエンナーレ組織委員会会長 | |
| 1994年の夏に、私が第16回ブルノ・国際グラフィックデザイン・ビエンナーレの開会式を組織委員会会長として初めて行った時にいくつか気づいたことがありました。その一つは、私の父[ヤン・ライリッヒSr.]が1964年に第1回ビエンナーレの開会式を行った時の年齢と私の年齢が全く同じだったということです(私は父からこの職務を引き維ぎました)。1964年の当時、私は14歳でしたが、それについてもちろん今でも少なからず覚えています。それにもちろん、他のすべてのブルノ・ビエンナーレについても、その歴史やたび重なる予期せぬ事態の急変も含めて、いまでも覚えております。 父は私に次のように語っています。父の頭に、このような展示会を組織するという考えが浮かんだのは、父がプラハで第二次世界大戦後初めての国際スラヴ・グラフィックス展を観た終戦直後にさかのぼります。しかし、その後、経済とコミュニケーションにおける孤立を招いた冷戦がぼぼ20年も続きました。1960年代始めになってようやく、ブルノ・ビエンナーレを関始する格好の時機が訪れました。当時、政治的緊張が幾分和らぎ、1961年には後にビエンナーレの組織団体となるモラビアン・ギャラリーという機関も設立されたのです。 どのビエンナーレも鮮明に記慣に残っています。そのいずれも、特筆に値するものでした。たとえば、第1回ビエンナーレ(ポスターと広告)は、チェコ人・スロバキア人のグラフィックデザイナーだけが参加した試験的なイベントでした。しかし、ブックデザインとイラストレーションを対象とした1966年の第2回ビエンナーレでは、早くも多くの国外からの参加者によって彩られるぼどになりました。そして、日本からのアーティストもこのイベントを見逃しませんでした(最近、福田繁雄氏から聞いたところによれば、福田氏が自分の作品を海外に出展する機会を得たのはブルノが初めてだったということでした)。1968年に開催された第3回ビエンナーレは、例外的に、展示関連のグラフィックだけを対象としました。1970年以降は、二つのテーマを交互に扱う周期に落ち着きました。「広告」のテーマ(ポスター、CI、情報、広告デザイン)と「エディトリアル」のテーマ(書籍、新聞雑誌のイラストレーション、タイポグラフィー、タイプデザイン)を交互に扱うという、国際的に見て極めてユニークなコンセプトです。このため、ブルノ・ビエンナーレはクワドリエンナーレのようになっています。つまり、4年毎に各テーマの順番がまわってくるというわけです。日本のデザイナーと専門家の方々はブルノ・ビエンナーレヘ欠かさずに参加されるようになり、よくブルノに私たちを訪ねてみえます。東欧を旅行中に勝見勝氏と福田繁雄氏が一緒に、私たちのブルノのスタジオに初めて訪ねてきた時のことを今でも鮮明に覚えています。両氏は、その後もう一度、勝見氏は1974年に、福田氏は1994年に、ブルノを訪れました。ビエンナーレでは、土方弘克、坂根進、麹谷宏、桑原達美、青葉益輝、勝井三雄、永井一正、松浦昇、立花文穂の諸氏や、『アイデア』誌の歴代編集長の大智浩、石原義久、須藤文夫、瀧田実、吉田秀道の諸氏にお会いすることができ、また時には我が家にお招きしたこともありました。ブルノ・ビエンナーレ(およびヤン・ライリッヒSr.)と『アイデア』誌の長年にわたる協力関係から、非常に多くの好ましいことがもたらされています。 ビエンナーレは「鉄のカーテン」を気にせずに、つねに自由競争を続けてきました。ビエンナーレは世界の東西に大きく窓を開いてきました。西側諸国はブルノで、それまで全く未知であった、いわゆる共産圏や誤って過小評価されがちな第三世界のグラフィック作品に触れることができたのです。一方、東欧諸国は日本やスイス、米国、英国、フランス、ドイツなどの最先端をゆく国々の作品を自分の目で確かめることができたのです。このことは、西側諸国の専門家や旅行者をはじめとする外国人はもちろんのこと、地元の専門家や一般大衆にとっても有益なことでした。 国際間で経験の交流を図るほかに、ビエンナーレにはもう一つ大きな目的があります。グラフィックデザインというものを最大の幅と最高の質で見せること、そして展示会を訪れる人々や学生や教師だけでなく、企業や産業や行政などの関係者も含めた一般大衆に、グラフィックデザイン、とりわけプロフェッショナルのグラフィックデザインの、コミュニケーションの技術として、近代産業化時代に欠かせないものとして、そして私たちの環境やライフスタイルに影響を与える最も重要なファクターとしての文化的かつ歴史的な価値を、理解してもらうことです。 名高いポーランドのポスターとロシアの児童画の時代、チェコの映画ポスターの最盛期、'60年代後期からのフィンランドのポスターの発見と日本のグラフィックデザインの世界的ブーム、フランスのグループ・Grapusが'70年代中期に初の大成功をおさめたときなどを、私たちはブルノで目の当たりにしてきました。ブルノ・ビエンナーレでは、コールダーやダリ、デュビュッフェ、エルンスト、フラー、ミロ、ピカソ、シマ、バサレリ、ウォーホルなどの近代世界芸術の伝説的人物の手になるポスターやイラストレーションを見ることができました。また、ソウル・バスやヨゼフ・ビンダー、ヨゼフ・ミュラー=ブロックマン、ハインツ・エーデルマン、ハンス・エルニ、ジャン=ミッシェル・フォロン、エイドリアン・フルーティガー、ネーサン=ガラモンド、ミルトン・グレーザー、ジョック・キネア、チェレスティーノ・ピアッテイ、ジョヴァンニ・ピントーリ、ポール・ランド、ラディスラフ・ストナール、アルマンド・テスタ、ヘルマン・ツェプフをはじめ、世界のグラフィックデザインの伝説的人物やスターが多数、私たちと共に自作を展示してきました。また、チェコ系アメリカ人のストナールも、ビエンナーレの草創期に、海外関係の相談役として父が頼りにした人物でした。 1989年11月に共産主義が崩壊してから、私たちはいくつかの心配事やとりわけ管理上の問題を取り除くことができましたが、財政問題を筆頭とする他の心配事が持ち上がっています。ビエンナーレは当初から公共基金からの資金調達に依存してきました。補助金は地方自治体から出たものであったり、ブルノ市から出たものであったり、文化省から出たものであったりしました。当初は、他の資金調達方法は考えられませんでした。必ずしも簡単にはいきませんでしたが、ブルノ・ビエンナーレはこれまでいつも、必要な資金をなんとか調達し、存続してきています。そうして現在ブルノ・ビエンナーレは、グラフィックデザインの周期展として世界で最も歴史のあるものとなり、一度も途切れずに続いているのです。 今年、すでに18回目となる今回のビエンナーレの準備にあたって、過去最大の経済的な問題が生じたにもかかわらず、ビエンナーレに対する世界中からの関心は相変わらず続いており、それに勇気づけられています。2月10日と11日のセッション[予備審査]中に、選考委員会はすでに、50カ国近くから寄せられた約900人に上るデザイナーの作品、約3,000点の中から、出展作品の選考を終えています。ブルノ・ビエンナーレはつねに大規模な展示会を誇り、いくつかに分かれた展示会場は互いにあまり離れていない場所に設置されています。この展示会では、500〜600個以上のガラス張りのパネル(100×250cm)を使って展示します。展示品は国別、さらに作者別に分類され、展示の位置が観覧者にわかりやすいように工夫されています。第18回ビエンナーレの正式開催(1998年6月24日)に合わせ、国際シンポジウム「ビジュアル・コミュニケーション:アートとアドのあいだ」や、いくつかの関連展示会のオープニングが予定されています。 | |